サクッと行ける海外旅行についてつらつらと書いていきます

タイトルまんま。誰でも旅行に行けるんです、ということをちょっとだけ発信していきたいわけです。たまにテレビのことなど、非旅行のことも。

なぜ日本では夜市ができないのか問題

一つ前の記事に挙げたように、ずっと錦里での光景を思い出していた。日本人もああやって楽しんいたはずだよなぁと。過去形にしたのは、今は“楽しむ姿”が期間限定的なような気がするから。例えばそれは、夏祭りやお正月。季節の風物詩と言えば聞こえはいいけど、逆に考えれば、季節の折々以外はあまり見かけないのではないか!?

 

 たしかに、毎夜飲んでいる人は大勢いる。でもね、せいぜい居酒屋で飲むか、ビアガーデンで暑気払い、小洒落たオープンテラスでミソクソの求愛トークや破廉恥トークをしているのが関の山。俺が錦里で見た光景は、生活の一部であり、下駄をはかせた言い方をするなら人生の一端を見た気がするというか。だからこそ、心から「いいなぁ」「なんで俺は一人でこんなところにいんだ?」と思ったわけです。日本で毎夜飲み交わされる酒は、仕事の延長だったり、恋愛の側面だったり、要するに上げ底ブーツを履いているような背伸び感があるわけですよ。いろいろと無理がたたっているし、そもそも無理してんじゃねぇの? と。そういう夜の楽しみ方が大多数になってしまっていると思うわけです。

 

 ところが、錦里で見た中国人たちの姿は身の丈にあっているというか、地に足がついているというか、「今日も楽しかった!」みたいな雰囲気が迸っていった。中国の成長とシンクロしているだけかもしれないけど、楽しみ方に惰性がない。ひとえにそれを助長(演出)しているのは、夜市というシステム、舞台装置の力もあるような気がする。だからこそ、帰り道に「なんで日本は季節の折々でしか屋台(夜市)をしないのか?」とずっと考えていた。

 『チェンデュー ミセス パンダ ホステル』に戻ると、一人の日本人男性とばったり遭遇する。無料で楽しめる博物館について書いた際にちらっと登場したAさんである。休暇を利用して10日ほど上海~南京~成都と旅行をしているとのことで、かつては公務員として役所の観光課で働いていたとのことだった。現在、日本には多くの外国人観光客が訪れ、今後もインバウンドの数は増大すると目されている。早くからこの問題に取り組んでいたというAさんは、過去に3回中国へ出張をし、対中国人の観光対策や傾向を見てきたという。俺からすればプロフェッショナルな方だ。そこで先の疑問を肴にビールを一緒に飲むことになった。

 

 もちろん、その話になるまでにはお互いに「何をされているんですか?」的な段階的な会話を踏まえて酒を飲み交わすにいたったわけだが、俺もAさんも仕事をしながら旅行をするという共通項があったがゆえに深い話ができたと思っている。Aさんは40を少し過ぎた方で、俺より5歳くらい年上の先輩だ。旅先でこういった思量の深い仕事人とあれこれ話せるのは、仕事をしているからこそだと俺は思う。

 『なぜ日本では夜市ができないのか問題』。

 

 それを取り上げる前に、俺の中でそう感じた一つの光景を話しておこうと思う。今年の4月にたまたま靖国神社で花見をする機会があった。恥ずかしながら、東京に30数年暮らしている我が身なれど、靖国神社の花見が「まるでアジアの屋台・夜市のようになっていた」ことを知らなかった。パイプ椅子が数百何千と置かれ、テーブルが設置され、その周りをぐるりとさまざまな屋台が囲っている靖国の花見の光景は、アジアの夜市となんら遜色のないほどの盛り上がりと、生活に土着した“自然体”の姿があった。集客率も抜群で大勢の人で賑わうその光景は、「靖国は無理でも、月に数回週末を利用してどこかの広場で開催するべきなのでは?」と考えてしまう活気渦巻く光景だった。東京に錦里のような計画的夜市がないのなら、屋台をずらりとそろえた夜市的空間を、お祭りのときのように定期的に作れないのか? と。

 

 そんな例を取り上げつつAさんとあーだこーだ話していたわけだが、夜が深まり酒が進むにつれ、やっぱり厳しいよねぇとしみじみしてきてしまった。

 

・食品衛生上、リスクが高い

何か月に一度だからこそ食品衛生に気を遣えるわけであって、毎週ともなれば衛生上の安全面を保たせることは難しくなる。よって広場を管理する自治体なり管理団体が開催に前向きではない。

 

・経済的格差による屋台という営業体系の限界

このご時世に屋台だけで利益を上げていくのは、少なくても日本という国では無理がありすぎる。屋台を展開するだけでそれ相当の稼ぎが見込めるだろうか……いやはや小遣い稼ぎにはなっても生業としてやっていくには、あまりに上の層との格差が広がりかねない。そこまでして屋台をやる人材がどれだけいるだろうか。

 

みかじめ料など政治的リスクがある

要するにヤクザとの問題などなどってことね。ましてや自治体&警察は暴力団撲滅なんて叫んでいるわけで、そういう状況下で定期的に連続して行うのはヘビーすぎるだろうと。

 気が付くとビール瓶が一人3本のペースで空いていた。先進国よろしく、すべてが洗練されていくと、屋台文化はなくなるんだろうなぁという結論に達して、ことの複雑さに唸るばかり。この手の雰囲気を毎夜楽しめるのは、たしかに中興国や後進国が圧倒的に多い。当然アジア諸国は多くなる。成長するとやっぱり何かをそぎ落とす(あきらめる)必要があるわけで、その役割はそれが可能な後人に譲るべきなんだろうな、と。これは都市や街の役割だけじゃなく、人の役割にも言えることだよなぁなんて思いながらゴクリと飲み干すビールは、美味いようでほろ苦い。

 

 確かに、日本にも横浜中華街を筆頭に計画的な繁華街はあるんだけど、錦里のそれは毎夜繰り出せる割安感とお手軽感があるわけで、ちょっとした贅沢感がある横浜中華街のような雰囲気ではないのだ。こういった夜市の雰囲気や体系は、今後もさまざまな国で見かけるだろうから興味深く見ていきたい。何にせよ、こういった話ができる人と旅先、それも中国・四川で出会えたことがうれしかった。旅先で「今まで行った場所で一番良かった場所はどこですか?」なんて話も悪くない。でもね、俺はできることなら先にある話がしたいんです。

 もしかしたら、成長や先進性によって日本人は全身でポーズをとることを忘れてしまったのかもしれない。数日後、別エリアから再びこの宿に戻って来た際に、60代の日本人女性と話をする機会があった。「中国人ってどこでも決めポースとりますよね。微笑ましくて俺は好きですよ」と伝えると、その妙齢の女性は『かつては日本人もそうだったんだけど、そうならなくなったわね。なんでだろうね』と首をかしげていた。たしかに太陽族の時代なんかは、男も女もクソみたいにカッコつけているじゃないか。貴族的、若者だけの特権的な意識だとしても、日本人も相対的にポーズを決めていた時代があったはずだ。今のインスタとは違う(承認欲求の塊と化した決めポーズとは違う)、ポーズをとれる自信や勢いがあったのではないかと思うと、これもまた意外に掘り下げ甲斐のある“どうでもいい問題”なのかもしれない。